「つまりだ」
すらりと長く、いっそ不健康なほど白い人差し指を伸ばし彼が言った。
「言い分としては、君にも父の遺産を受け取る権利があると言うのだね?」
「は、はあ。まあそうです。私だってこんな卑しいことは言いたかなかったですが、あの時旦那様がそう仰ったものですから」
「いや、わかるとも。私も君には大分世話になっている。父が君に遺産をいくらか遺そうと、別に不思議ではないよ」
坊ちゃんがいつもと変わらず微笑んだのを見て、私はほっと胸をなでおろした。何せ私には殺人の容疑がいくらかかかっていたのだ。正式な診断書が出れば疑いも晴れるだろうが、今日は今朝から屋敷の人間の視線が痛い。
「あの時の会話の内容はまあ、その通りですが……証拠がある訳でもなし、なしにしてもらっても構いません」
「君もツイてなかったね。まさか急に発作で死ぬなんて」
そう、旦那様が亡くなったのは、私が彼と二人で面談をしていたまさにその時のことだ。鍵のかかった部屋で、周囲に人影もなし。突然旦那様が倒れた時の、私の気持ちと言ったら……。
駆けつけた警察はまあ、持病のせいだろうとあたりをつけつつ、容疑者である私を署につれて行こうとしたのだが、それを坊ちゃんが止めてくださり今に至る。
そんな話をしているうちに、屋敷の前に馬車が留まった。
「ああ、正式な知らせが届いたみたいだね。まあ、事件性はないだろう。父はだいぶ悪いようだったから……」
私と坊ちゃん、他の使用人数人が馬車を迎えに行くと、案の定やってきたのは警察だった。しかして調査の報告が始まったが、事態は思ったよりも良くない方向に進展した。旦那様の死因は毒殺。密会の時に召し上がっていたケーキが怪しい。このケーキは昨日の夕食時から誰でも入れる厨房に冷やしてあったもので、私の疑いは緩くはなったが、嫌疑の輪は屋敷全体に広がってしまった。
刑事は屋敷の一室を借りると、あろうことか坊ちゃんも含め、私たちを順に呼び出して事情聴取を始めたではないか。私は順番を待つ間、昨晩よりももっと重い気持ちで坊ちゃんの隣をうろうろと歩き回ることになった。
「いやあ、驚いた。まさかこの屋敷で殺人事件が起こるとは」
こう呑気に言うのは坊ちゃん。緊張感がないからと言って、悲しんでいない訳ではあるまい。私は彼を気の毒に思い、かと言って今飲み物などは不安になるだろうからブランケットを差し入れた。するとメイドは警察に交渉し暇つぶしの本などを書架から持ってきて、見習いの青年は坊ちゃんに明るい雑談を振った。
「ありがとう、君たちは優しいね」
「いえいえ、これも務めですから」
坊ちゃんは――最初から落ち着いていたのだが――落ち着いた様子で椅子に座り直すと、私たちに礼を言った。そして周りに人がいなくなったタイミングで、私に向かってこう提案をしてきた。
「なあ、君。遺産の件だが、さっき私が、君から話を聞いて書き留めていた紙があるだろう。あれを提出して、途中までその場に私がいたということにしてしまわないか」
おっと、これはアリバイ工作だ。さすがの私もこれにはぎょっとして、思わず疑いの目を向けた。
「そんなことをして、何になるんで?」
「うん、実は犯行推定時刻の間、私にはアリバイがないんだよ。書架で調べ物をしていたら、すっかり眠ってしまってね。色々タイミングが悪くて、昨晩は誰も私を見ていないんじゃないかな。それはちょっと、面倒なことになるんじゃないかと思ってね。私のアリバイを証言してくれる代わりに、君の遺産の話も私が証言してあげよう、これでどうだい?」
「はあ、しかし……上手く行きますかねえ、バレたら大変なことになりますよ」
「なぁに、私も君も、父を殺した犯人そのものではないんだ。少なくとも私は君のことを信じてる。もしバレたら、正直に謝って罪を軽くしてもらおう」
「はあ……」
断るべきだったのだが、ついこの、小さい頃から知っている坊ちゃんに対して親心のようなものが働いてしまい、わるだくみに乗ってしまった。
そしてさらに悪いことに、事情聴取、家宅捜査の成果も虚しく事件は解決しなかった。本件は迷宮入り。使用人達は開放されたが、屋敷内には重い空気が流れ、私はまさか私と坊ちゃんの嘘の証言が捜査の妨げになったのではないかと気が気でなかった。
しかし人とは適当なもので、二ヶ月もすると何となく屋敷の人々も元通りになった。私は旦那様の遺産を少しだけ相続し、容疑がかなり薄くなったので皆から祝われることになった。
「いやあ、少額とはいえ、働きが評価されるのは素晴らしいことですね」
「あんなことになって残念ですが、旦那様は本当にお仕えしがいのある方でした」
その席で例の会話記録(ダイアローグ)を見せた訳だが、そこで物語は意外な展開を見せた。
これを坊ちゃんに書いてもらったと言うと、「えっ」と後方から声が上がったのだ。
発言をしたのは、若いメイド。
「どうしたのですか?」
「い、いえ……あの晩坊ちゃんは早い時間から眠っていたと記憶してるものですから……」
しまった! 私は、背中の毛穴という毛穴から汗が流れるのを感じた。うまく誤魔化さなければ少なくとも、この記録が偽物だということがバレてしまう……その時。
「そこまでだ!」
高々と響く声は坊ちゃん。そして彼が繰り出したのは東方の謎めいた武術、カラリパヤットではないか? メイドは取り押さえられた。
「あの日私は夕食後、書架にて調べ物をしていた。すると差し入れ戸のベルが鳴り、紅茶が置いてあったんだ。私は迂闊にもそれを飲んでしまい、眠り込んだ。そう、睡眠薬が入っていたのさ。しかし、そもそも考えてみたまえ。書架には普段から私と父くらいしか出入りする者がいない。朝まで出てこないことも暫しだ。だからこの会話記録(ダイアローグ)の捏造もまかり通ったのではないかね? つまり私が『眠っていなかった』ことを不思議がる者がいるとすれば、そいつが犯人だ。そしてあの時間に、私を眠らせる理由などただ一つ……」
結果として坊ちゃんは嘘の証言で捜査を掻き回しただけなのか?
それとも見事な作戦で犯人を炙り出したと言うべきか?
メイドが旦那様の殺害を認めたので、我々の件は有耶無耶になった。